J昇格への道・2-ヴィッセル神戸、J昇格への道・2- 海図の無い航海1995(平成7)年のJFL(5月7日開幕、全16チーム)。 この時からプロとして参戦したヴィッセル神戸は、NEC山形(現・モンテディオ山形)に0-2で敗れたのを皮切りに、 引き分けを挟んで開幕3連敗を喫した。前年にJリーグから「準加盟」を承認されており、「2位以上」で乗り切れば、 Jリーグ入りが確定する勝負の年だった。 阪神大震災からわずか3ヵ月余。チームは『疎開先』の岡山から4月にようやく神戸へ戻ったばかりで、 練習不足だったのは言うまでもない。しかも、3月にはメインスポンサーだったダイエーの撤退…。 海外企業からの支援を受けるといった報道もあったが、思うように事は運ばず、クラブは新スポンサー探しに奔走する事になる。 練習場も無い、スポンサーも無くなり、常にチームが存続するか解らないといったプレッシャー・・・ 練習試合をする際にも、ユニフォームが用意出来なかったために練習着の上にビブスをつけて試合に臨むしかなかった。 そんな状況の中、「せいぜい続いても夏までだろう」といった噂も出始めていた。 安達貞至ゼネラルマネジャーは「選手に『君らが一つ負ければ、スポンサー候補が一つ減る』と言い続けた。 (J昇格を決めた)いま思うと、バカだったとしか言いようがない」と悔やんだ。 プレッシャーがどうのという言い訳がプロの世界で通用するとも思わないが、 震災はボディーブローのように選手たちに、ダメージを与えていたのだ。 震災で練習に使えそうな場所は、仮設住宅や救援物資の保管などに使われ、 神戸市内でも決まった練習場はなく、神戸市郊外を含め4ヵ所の公共施設を渡り歩いて練習を行っていた。 当時の監督、スチュワート・バクスターはこう振り返っている。 「環境は大切だ。今回の一件で、はかならずも、環境がチームにどれほど大きな影響を与えるか、 我々が身をもって示すことになってしまった。」 神戸市が用意してくれた現在の練習場「いぶきの森球技場」の完成は95年JFL前期終了前の7月に入ってからであった。 1995年6月18日、第4回JFL第9節 VS京都パープルサンガ(西京極)0-1 レフティの梶山選手 バクスター監督もあまりにも選手層が薄くなったため、苦肉の策として、 当初スタッフとして招き入れた松田浩(現・ヴィッセル神戸監督)を現役復帰させ副キャプテンとし、 6月にはサテライト監督を務めていたヤナ・ヨンソン(元・サンフレッチェ広島選手・コーチ)を選手登録に変更する。 そして、6月25日、第4回JFL第10節・鳥栖フューチャーズ(現・サガン鳥栖)戦で、やっとホーム初勝利を収める。 スコアは3-1。この鳥栖戦でヨンソンはゴールを挙げ、チーム蘇生の原動力となる。 1995年6月25日、第4回JFL第10節 VS鳥栖フューチャーズ(神戸ユニバ)3-1 DF陣を統率した松田選手 もちろん、安達GMも手をこまねいていたわけではない。 戦力面でFWジアード(チュニジア代表)、MFビッケル(スイス代表)とワールドクラスの選手を補強し、 チームの建て直しを模索したが、軌道に乗り出したのは、やはり、キーマンと呼ばれる選手たちが参戦してからだった。 5月31日に、清水エスパルスのFW永島昭浩(31)が、7月18日にはガンバ大阪から、DF和田昌裕(31)という Jリーグ創世期を支えた看板選手が、相次いで移籍してきた。彼らとGK石末龍治(32)の三人は、 それぞれ出身高校こそ違うものの、昭和57年の島根国体で兵庫県代表を務めた『兵庫トリオ』。 「公私とも結束の固い彼らがそろったことで、名実ともに神戸のチームと呼ぶにふさわしくなった」と安達GM。 和田はガンバ時代から「神戸にチームができたら必ず帰る」と言い続けてきた。 永島もまた、「やっぱり地元でプレーできるというのは誇り」と加入を喜んだ。 1995年9月24日、第4回JFL第23節 VS京都パープルサンガ(神戸ユニバ)3-2 ゴールを決め、喜ぶ永島選手。 当時はプロ野球・オリックス ブルーウェーブのイチロー選手と同じ51番を背負っていた。 実際、後期から加入した二人の効果は大きく、戦力が整った後期リーグ戦はJ準会員チームとの直接対決も 2勝1敗と勝ち越し、前期5勝10敗だったのが、後期には13勝2敗(通算18勝12敗)。 結局この年は6位に終わったため、J昇格を京都サンガとアビスパ福岡に譲ったが、 文字通り『復興』の兆しを見せたシーズンとなった。 1995年10月1日、第4回JFL第24節 VS鳥栖フューチャーズ(佐賀)0-1 ヴィッセル神戸スターティングメンバー 後列、左からDF松田、FWジアード、MFビッケル、DF和田、MFヨンソン、FW永島。 前列、左からGK石末、DF吉村、MF江川、DF幸田、MF内藤。 10月5日、まだ名前がなかった牛のキャラクターに一般公募1081通から「モーヴィ(MOVI)」が選ばれ、命名された。 牛の鳴き声「モー」と英語の勝利「ヴィクトリー」を併せた名前。 まだ名前がない時、ヴィッセル内部では「ウッシー」、TV中継時の実況アナからは「ウシさん」と呼ばれていた(!) 1995年10月22日、第4回JFL第29節 VSヴァンフォーレ甲府(神戸ユニバ)2-1 永島選手。 今後につながる形でリーグを終えたヴィッセルは、その勢いのまま天皇杯に挑む。 第75回天皇杯1回戦の相手は去年と同じ、清水エスパルス。基本どおりのアウェーの戦い方で、ジアードの2ゴールで快勝。 2回戦はJ2年目のジュビロ磐田。このゲームもジアードの2試合連続2ゴールでベスト8進出を果たす。 準々決勝は名古屋グランパスエイト。前半にストイコヴィッチにやられ0-2と敗れ去るが、 J相手に十二分に戦ったヴィッセルは来期の悲願に向けて激動の95年シーズンを終える。 (この第75回天皇杯は結局、名古屋が優勝する) 1995年12月10日、第75回天皇杯2回戦 VSジュビロ磐田(小瀬)2-0 木下選手。 1995年12月17日、第75回天皇杯準々決勝 VS名古屋グランパスエイト(長良川)0-2 ビッケル選手。 ~つづく~ |